遠雷

誰かにとっての花火に撃ち抜かれて此方

拝啓、予感という可能性でしかない絶望へ

菊池風磨
私はまだ菊池風磨という人間を咀嚼するに至っていない。
いや、身近な親や友達ですら100%完璧に咀嚼できていないのだから何をか況やという話だけれど、けれど彼らは事務所に所属するタレントとして思考や日常を言語化・可視化して切売りしているため、ある意味親や友達よりも彼らを紐解く資料は多く手元にあるはずなのだ。それでも彼を理解できないと感じるのは、彼が私の理解に及ばない存在であることの逆説的な証明なのだと思う。
私は彼を初めて見た時、勝利くんを見た時とは別のベクトルで、この人は本当はアイドルをやりたくないんだろうなと思った。正確には、この事務所で、このグループでアイドルを長く続けていく気はないんだろうと。そしてその印象は、勝利くん同様、今もあまり変わっていない。風磨くんはきっといつかSexyZoneを出ていくだろうと漠然とした確信がある。今はまだ、箔がないから辞めないだけだ。事務所に入った理由も、元々器用な性質で大抵のことはそつなく熟せるのに「部活で完全燃焼できなかったから」という彼のこと、まだアイドルとして冠番組もなく知名度も先輩には劣るという状況で、今辞めるのは半端に投げ出すようで格好悪いと思っているんだろうな、と何故かそんなことはぼんやりと、彼が明確に発言した訳ではないのに何となく伝わってくる。
だって彼は歌が好きだ。歌うことが好きだ。それは渋谷すばるが古巣たる関ジャニ∞を辞めた時に私が感じた、「ああこの人はひとりぼっちで音楽と心中するためにグループを抜けるんだな」という悲壮な覚悟ではなく、自身の表現のツールとして選択する歌という、どちらかというとカラッとさばけた覚悟だろう。だから彼は、グループを抜けても歌うことは辞めないだろう。けれど、いつかきっと辞めそうだという最初の印象を拭うことができない。絶対に傷つくとわかっていて恋はできない、みたいな感じなのかもしれない。だから、好きになりたくないなと思って、でも、心は惹かれるのを止められない。

ジャニーさんが「YOU達はずっと一緒だよ」と告げたように、もし人生を本に例えるなら、風磨くんのアイドル人生には最初の1ページから中島健人が登場している。中島健人菊池風磨。1週間違いの入所日、1年と1週間違いの誕生日。かの事務所では流動的なシンメという絆で、けれど彼らはずっと繋がれている。
私は2019年秋からのおたくだから、彼らの不仲期、風磨くんの反抗期、所謂氷河期をどう過ごしていたかはわからない。今では互いの急所を掴みあってゲラゲラ笑い転げるほどの仲なのに、楽屋では目もあわさず口も利かず、「足を踏んだ踏まないで掴み合いの喧嘩を始めそうなほど」緊迫していたという青く儚い青春の足跡を、私は先人達の記憶越しに眺めることしかできない。それは曇りガラスの向こうの世界を想像することと同じで、輪郭はぼやけて、どれほど目を凝らしても正確な像を結ぶことができない。
事務所の方針でコンビ売りを強要された相手と、運よく親友になれる確率がどのくらいあるだろうか。むしろ一緒にいすぎて仲が悪くなることもあるだろう。現にヨコヒナがそうだった。必要なのは歩み寄ることと理解する努力を怠らないことだ。けれど思春期の少年にそれを強いることは難しい。私だって苦手なタイプの人と積極的に話そうとは思わない。むしろ避けて通りたくなるだろう。
直接的に攻撃しなかったのは風磨くんの優しさで、それに立ち向かえなかったのはだからきっと、健人くんの臆病さだった。
どちらが悪かったとかではなく、多分どちらも足りないところがあったのだと思う。懐の広さとか、対話とか。衝突する理想の強度の問題だったのかもしれない。けれどそんなことは今更些末なことなのだ。問題は菊池風磨中島健人を「受け容れ」「認めた」ことで、中島健人もまた、菊池風磨の変化を喜ばしく「受け止め」ているという事実だけだ。
おたくが咀嚼できないどうこうより、今はそれが一番尊重すべき事実なのだ。健人くんが風磨くんを、好ましく、そして特別に考えている。それ以外に認識すべき事実はない。けれどきっと健人くんは、風磨くんが自分から離れる未来を、多分露程も想像していないのだろうなと思う瞬間がある。彼にとって風磨くんは、自分とは違う世界にいるけれど、その世界はずっと隣り合って平行線上に伸びていくのだろうなと無条件に信じ切っていそうな気がする。だから私はこんなに、風磨くんを見ると悲しくなるのかもしれない。

風磨くんはきっといつかSexyZoneからいなくなる日が来ると思う。けれどそれは辞めてほしいという訳ではない。辞めてほしくないから、彼を知るのが怖いのだ。
私は以前関ジャニ∞のおたくをしていて、担当ではなかったけれど、渋谷すばる関ジャニ∞を去った時、それこそ胸を引き裂かれるくらいに苦しんだ。好きだから受け容れられなかったし、正直今も受け容れられていない。一介の弱いおたくがそんなことを願うべきではないけれど、永遠という彼がついた優しい嘘を、出来る限り長くつき続けていてほしかったという祈りが消えなかった。
そうやって、私は心から彼の脱退を受容れ、認めることができなかったから、関ジャニ∞そのものから離れることを選んだ。好きだから、とてもとても好きだったから、決定的に嫌いになりたくなくて、嫌いになる前に離れた。本当に、下手な恋愛みたいで我ながら自分酔いが過ぎて救えないけれど、それでもそれが青臭く醜い本心なのだから仕方がないと諦めた。
私のようなおたくがひとり消えたところで関ジャニ∞は恙なく我が道を進んでいくし、世界中に笑顔を届けてくれるだろう。すばるくんは命ある限り、その身を焦がして歌い続けるだろう。
それはそれでいいのだ。
だから同様に、風磨くんを好きになればなるほど、彼が本当に辞めてしまった時、私はまた心から苦しむだろうという予感が拭えない。それは私の中に、不思議と確信として根を張っている。
ファンの気は移ろいやすい。一生愛し続けますと言うファンの中に、本当に一生を通して彼らを愛し抜くファンがどれほどいるだろう。彼らもまた、それをわかっているのだ。本当にずっとずっと一途に彼らだけを愛して付いてきてくれるファンが一握りしかいないことを、彼らもまた理解している。
けれど、人生のほんの数秒でも数時間でも、あるひとつのことだけを熱烈に想い、愛し、幸せを祈ったことがあるおたくなら、愛したアイドルが愛したグループから綻びが生まれるあの絶望を、苦しみを、また味わうのが恐ろしいと思っても仕方がないことなのではないかと思う。
私だって苦しいけれど、彼らだって苦しいのだ。きっと。
それに、自分勝手な理由で彼らのファンを名乗らなくなるおたくが何万人といる中で、彼らだけにその責を担わせるのもまた傲慢というものだ。彼らは夢を売って生計を立てている。けれど、彼らが生きるために売るべきは、最早夢でなくてもいいのだ。今もかの事務所からは多くのアイドルが生まれ、そして失われている。それをまだ二十代前半という彼らだけに背負わせるのはおたくの業だ。
最も罪深きは、せめて私が彼らを好きでいる間だけでいい、5人で仲良くしていてほしい、ということだ。私が彼らにお金を落とすほど愛情を注げなくなったら、傷は浅くて済む。お気に入りのぬいぐるみ、陶器の置物、そういった記憶の欠片となって淡い痛みを残す程度の距離まで離れられたら、こんな風に考えることもなくなるだろう。

でも、風磨くんのいいところ、いざという時にはしっかりと感情を言葉にできる意思の強さ、相手を労われる優しさ、家族や友達を大切にする男気、後輩を可愛がる兄貴分なところ、先輩を敬う謙虚さ、歌に感情を乗せるのがとてもじょうずなところ、アイドルだからと言って嘘をつきたくないという不器用さ、そういう彼という個人が好きで、好きだからこそ、ずっとSexyZoneというグループに籍を置いていてほしいなと、私は心から願っている。
いつかの未来で、ああこんな的外れな不安を抱いていた日もあったなと過去の自分を嘲笑いながら、意気揚々と彼らのX周年のコンサートに足を運べる日が来ますように。